ことばのポトラック

2012年4月8日

春風社より『ことばのポトラック』刊行!

去年3月から始まった大竹昭子さん主催のリーディング・イベントの集大成。大竹さんの行動力には頭が下がる。50人近くの物書きを集めて作品を書かせ、朗読会に呼び出した。印税と募金を陸前高田市の学校に届けた。

僕は一回参加しただけだったけど、物書きが社会との接点をもつという原点を思い起こさせられた点で、ほんとうに教えられた。朗読会では勁草書房の『ろうそくの炎がささやく言葉』のために書いた「フルートの話」を読んだが、『ことばのポトラック』刊行にあたっては、よその本に載っていない新作書き下ろしをと頼まれて、新しいのを書いた。メキシコの地震がメキシコにどれほど大きな変化をもたらしのかということを考えた「1985」という文章。

メキシコやハイチの地震のほうが、ずっと死者は多かった。そして、被災者に対する公的な援助はずっと少なかった。

http://kotobanopotoluck.blogspot.jp/

エッセンスに向かって

今朝、3月31日朝から僕が主催する展覧会が始まった。「絵から文へ、文から絵へ 門内幸恵展 エッセンスに向かって」と題するもの。

門内さんが雑誌上で文章に添える挿絵として描いた作品と、彼女の絵に触発されて、さまざまな年齢背景をもつ5人の作家が短い物語をを展示した。くぼたのぞみ、六月まどか、温又柔、南映子、旦敬介の5人が書き下ろした。

2日かけて設営したが、予想以上にいい空間ができあがったと思う。今日は朝から正午まで強風の中、現場にいたが、訪問客なし‥‥。んー。

3月31日(土)〜4月26日(土)明治大学生田図書館Gallery ZEROにて。

http://www.lib-ref.jp/meiji/opennews/NewsViewAction.do?id=NS00000757
 

卒業式と歌

3月16日

息子の高校で卒業式。中等教育学校なので、6年前の入学式以来、初めての式典出席となった。会場(体育館)に入ってすぐに、壁に貼り出された式次第で、いちばん最初に「国家斉唱」と書かれていることに気づいてがっくりきた。入学式では国歌斉唱はなく、開明的な学校でよかったよかった、と思って帰宅したことを覚えていたからだ。東京都教育委員会の支配下にない学校でほんとによかった=、と思ったのだ。しかし、それからの6年でたしかに、国旗・国歌の強要の度合いが増したことをこの変化は如実に示していると思った。壇上には当然のように日の丸もあった。6年前にはなかった。「来賓」の中には、登壇時と降壇時の両方に、これみよがしに日の丸に向けて礼をする人もいた。校長や関連大学の学部長はそれをしなかったことがせめてもの救いであった。

息子の小学校(東京都の公立校)の卒業式で、開式時に「起立!」の号令があったのでそれにしたがって立ち上がったら君が代が流れて、歌いはしなかったものの、立ったままでいたら、あとで、親しくしていた同級生の親のひとりから、「そんな頭をして、君が代で立ったりしちゃいかん!」(僕は当時も今もモヒカンみたいな髪型をしている)と言われたのが頭に残っていて、ずっと気になっていたのだ。

今回はやはり、最初に、何のためなのかと述べることなく(ここが既成事実化していくずるいところなのだ)「起立」の号令があったが、意を決して起立せず、すわって君が代を聞いた。生まれて初めてのことだった。卒業生、在校生、父兄、教員、来賓合わせて500人以上、600人近くいたが、ほとんど歌声が響かなかったのが、これもまた、せめてもの救いであった。

どだい、学校の卒業式に国家を、つまり国旗や国歌を、持ち出してくる理由がひとつもないのに、そこが曖昧にされ、なしくずしにされ、学校教育において国家を意識するのが当たり前だというようなおかしな短絡が現在では一般化させられている。元来、国歌は外交関係における式典用のものとして開発されたものなのだから、対外的な領域にとどめておけばよい。学校は日本や国家に奉仕する人材を育てる場所ではなく、地球のため、全人類のために奉仕する人を育てる場所なんだから。

「立っちゃいかん」と叱責してくれたのは、尊敬するギタリストのハチさん。6年越しの約束。

6年前にくらべて、僕が少しは個人として成長できたことを示す出来事だった。僕の場合、それにはたしかに、2011年の大震災と原発事故がかかわっている。

ところで、式の最後の項目に「蛍の光斉唱」があった(そういう古典的なな学校なのだ)。歌の前半はよく覚えていて歌えるのだが、一番の後半からだいぶあやしくなって、二番は全然歌えないことがわかってびっくりした。嫌いな曲じゃないのに、忘れるって、たしかにあるんだ=、と思った。

ついでに。

友人の細川周平さんが、1か月前に彼の一家も歌声で参加して作られた集合的な歌声プロジェクトCDを送ってくれた。『えっさほいさっさ 東北応援歌声メッセージ』というCDだが、「お猿のかごや」と「故郷」の2曲だけからなっている。どちらの曲も編曲がよくて楽しいのだが、とくにこの「故郷」がいい。「うさぎ追いし、かの山」の歌だが、いざ歌ってみると、実はシンコペーション的な部分があるモダンな歌であることがわかった。カラオケ版も収録されていて、これが案外、むずかしくて面白く、しかも、今の日本の状況では、思わず涙を流さずに歌うことができない。歌っているうちにぼろぼろと涙が出てきてしまった。

今、日本じゅうで歌われるべきはこの歌だと思う。

http://essa-hoi.net/

バジェホ『崖っぷち』

友人の久野量一が翻訳したコロンビアの作家フェルナンド・バジェホの作品『崖っぷち』(Fernando Vallejo: Desbarrancadero)が松籟社から出たので、「週刊読書人」に書評を書いた。

この作家はホモセクシュアルであることを公言して、それを重要なテーマとして自伝的な内容の色濃い作品を書いている中南米ではめずらしい作家。『崖っぷち』は肝臓癌で死んでいく父とエイズで死んでいく弟の死を看取る作家の中に吹き荒れる嵐をそのまま書き出した作品。そんな現実を招来した現代のありとあらゆるものごとの巡り合わせに対して罵倒を叫び出していく。内戦に近い武装対立が一般化し、ドラッグ関連犯罪が続発する現代のコロンビア、その中で崩壊した家族(ラテン系の豊満な大家族という神話の崩壊)、何も成し遂げられない政治、あらゆる悪しき保守主義根源であるカトリック教会と法王、それに輪をかけるグローバリズムと新自由主義、直接的な周囲の人間から個人の関心をそらしてヴァーチュアルな関係にひっぱりこむインターネット‥‥それらに対する爆発的な罵倒が連続する。ただし、すこしばかり単調で半分読むとだいたいもうわかった、となるのが難点。

歯に衣を着せずに言いたいことをいうのがこの作家の取り柄で、だから、「コロンビアの最後の良心」と呼ばれたりもし、この作品もガジェーゴス賞を受賞している。もう3年前になったか、10年以上誘拐されていたコロンビアの元代議士、大統領候補(泡沫候補だったはず)イングリッド・ベタンクールが、コロンビア軍の卓抜な救出作戦によって解放されてとくにヨーロッパで英雄扱いされたときにも、彼女が誘拐されるに至った事情を冷静にとらえなおして、政治的野心から無鉄砲な行動に出た彼女のことを冷徹に批判していたのがバジェホだった。

書評は「週刊読書人」2012年2月24日号に。

牛山純一・岡村淳

2012年2月24日

大慌てでオーディトリアム渋谷にドキュメンタリー映画『テレビに挑戦した男・牛山純一』を見に行く。企画:佐藤真 監督:畠山容平。数日前に鴨鍋を食べたときに港千尋と藤部明子が話していたので。テレビの草創期のニュース番組からドキュメンタリー番組へと進んでいった元日本テレビ名物ディレクターの姿にかつての仲間や部下が迫るというもの。彼がかつて担当していたという毎週の番組、「ドキュメンタリー劇場」、「すばらしい世界旅行」は僕自身もよく見ていたような。ベトナムや沖縄での制作の仕方など、ぐっと引きこまれて見た。しかし、本人の作った映像がほとんど見られないのが残念! ベトナムのドキュメンタリーは本当に見てみたい。見てみないと意味がない。その事情も港から聞いていたが‥‥(使用料が高すぎて使えないらしい)。出身地の茨城県龍ヶ崎中央図書館のコレクションにはあるのか?

上映後、監督とのトークショーでゲストが記録映像作家、岡村淳監督。本編最後にも登場するのだが、マシンガン・トークでまったく監督との対話ではなく、独演会になった。岡村さんはブラジルを撮っているうちについにブラジルに移住してしまった人としか知らなかったけど、牛山さんの下で映像を撮りはじめて鍛えられた人だったと知った。「大アマゾンの浮気女」「アマゾンをさすらう牧童の旅・サーカスの旅」といった昔の担当番組のネーミングは牛山氏によるものだったという。牧童の部分はアマゾンとは関係がないんですけど、と抗弁すると、「そんなのは小便リアリズムだ!」と一蹴された、とか。牛山純一というのは、良くも悪くもテレビのドキュメンタリーの定型を作った人だったんだと納得した。

最前列にすわっていたので、岡村さんに挨拶できてよかった。

左が畠山容平監督、右が岡村淳氏。

 

Robert Randolph

28/2/2012

ピーター・バラカンが「ごキゲンなライブ」だとしきりに勧めるので、今日の朝まで聞いたこともなかったロバート・ランドルフを見に行ってきた。たしかに、「ごキゲン」とはいい得て妙な表現。黒人の男の子たちがやりたい音楽をやっているうちに行きついた音楽という感じで、ブルーズとファンクとスカとカントリーとロックとソウルが混ざっているような、ねっとりとしたグルーヴのある音楽! ランドルフは首も胸も腹も腰も腿も猛烈にぶっ太くて、ぜんぜんおしゃれな感じじゃない、まるでマイク・タイソンみたいな外見で、猛烈なスライドギターを弾きまくる。リミックスの時代にあって、楽器を弾くことの喜びに満ちている。ブルーノートなんて、ふつうは絶対行くことのない店に高い金を払っていっただけの甲斐はあった。ただし、短すぎたし、おとなしすぎた。だってぜんぜんブルーノート向けの音楽じゃない! せめて、クラブ・クアトロ。どこか踊れる場所でやってくれ! 何よりもコンゴから来たバンド、コノノ#1を思い出した。電化されてひずんだ音で、がんがん攻めて来て腰を揺するところ。ペダル・スティール・ギターがオルガンのように聞こえてくることすらあった。ポリリズム的な複雑さは全然ないんだが、揺すられた。思わず声が出てしまうライブ。できれば、ランドルフの厚い胸を叩いて、友達になりたかった。ありがとう、ピーター。

音楽性をそのままあらわしているかわいい筆跡。

雨の日カフェでブラジルの話

1月15日、日曜日

青山骨董通り裏の「Rainy Day Bookstore & Café」で、管啓次郎の『コロンブスの犬』文庫化記念の鼎談トークショー。写真を寄せた港千尋とともに。40人ほどで満席。「ブラジルに教えてもらったこと」というテーマだった。

まず、『コロンブスの犬』は管君の初めての単独著書で、1989年刊行の本だから23年ほど前の作品ということになるが、読んでいて驚くほど管君が変わっていないことを確認した。本人は「成長していないということか」と言っていたが、最初からかなり完成した物書きだったということだと思う。文体としても、口調としても、手法としても、テーマ系としても、現在、彼が書いているものと驚くほど良く似ていて、見まがいようのない管的刻印が記されているということだ。

と同時に、僕にとってのブラジルと管君にとってのブラジルが、だいぶ違うものであることもよくわかってきた。住んだ場所が違うのだから当然なのだが、やはり彼にとってのブラジルは、圧倒的にサンパウロであり、少しばかりのリオであって、要するにブラジルの地域区分ではスデスチ(南東)地方、すなわちブラジルで一番都市化・工業化・近代移民化が進んだ地域なのだが、僕にとってのブラジルはノルデスチ(北東)地方であって、すなわちブラジルの中で一番貧しく、一番遅れていて、一番アフリカ的なものが強く生き続けている地域のことだからだ。

以前、彼に話したことがあるのだが、僕の中では、アフロ・ブラジルでない部分のブラジルにはほとんど興味がなくなっている、というか、全然好きでないので、この違いはかなり大きいような気がしたのだ。当日、説明するチャンスはなかったが、メインストリームのブラジルは、たしかにかなり自由なところで、個人の欲望を肯定しているのだが、それゆえに、人のエネルギーが拡散しがちで、本当にすごく集中したエネルギーをもった人や出来事が出てきにくいところであるような気がする。つまり、エネルギーを集中してひとつの方向に収斂させるタガがないため、いわばタガが外れているのだ。自堕落になりやすい、と言ってもいい。そこで、ブラジルから出てくる本当に偉大なものは、なんらかの社会的要因や個人的要因によって、個人のエネルギーにタガがはまっていて、限定されたたったひとつの出口からエネルギーが出るようになっている人からしか出てこない。それがやはりたとえば、貧困や人種の問題によってタガがはまっている人たちだ。偉大なサッカー選手の大部分がそうだ。あるいは、たとえばアイルトン・セナの場合、強烈な宗教意識とストイシズムがタガの役割を果たしたと思う。

もうひとつ、話の準備をしている時に気づいたのは、僕にとって、ブラジルというのは最初から今にいたるまで、ずっと困難な場所だったということだ。決して僕にとって、ブラジルは自分の生来の感覚や嗜好にぴったりくる馴染みやすい場所ではなかった。むしろ、自分の変容を要求される厳しい場所であった。しかし、それこそ僕が求めていたものだったのだ。自分の生まれ育ちを脱出させてくれるもの、「自分という牢獄」と管君は書いていたと思うが、それを打破することを要求してくるものだった。それがバイーアだったのだ。僕がよく、バイーアで生まれ変わった、とか、バイーアで別人になった、と言ったりするのはそういうことだ。自分を鍛え直して、変えてくれたのだった。